詰将棋

私は将棋が弱くて困っている。私ほど将棋が弱い人間も珍しいだろう。

かどうかはわからないが、そういっても過言ではない。

ものの本を読むと将棋が強くなるには詰将棋をやればいいと書いてある。人によっては、実戦などやらずにひたすら詰将棋をやるのが上達への近道だ、などという人もある。

それはまことにもっともな話だ。

自分が3手先しか読む能力がないのに、相手は15手先を読めるのであれば、私が勝利する道理はないのだから。

敵の巡洋艦は真っ昼間の快晴の中を走っているのに、私だけが夜戦状態にあるようなものだ。

なるほどわかった。では君の言う通り詰将棋をやってみようじゃないか。

と私はやけに上から目線で思う。

だがこの詰将棋というものが私にはちっとも面白くないのだった。

私はパズルは結構好きな方である。詰将棋もパズルの一種だろう。

そう思ってやってみてもどうも興味がわいてこない。どうも苦行じみている。詰将棋をひたすらやれば誰でも1か月で初段になれるのだ、という人もいるが、私の脆弱な精神では1か月の苦行には耐えられそうもない。詰将棋の苦行に耐えられる人だけが上達できるのであれば、「才能のある人が強くなる」と言っているのと変わらないではないか。

似たようなジャンルのものとして「詰碁」がある。囲碁のルールでは、相手の石を囲むと相手の石を殺すことができる。石を殺す手順を見つけたり、あるいは自分の石が殺されない手順を見つけたりするのが詰碁である。

やってみるとこちらは面白い。

実に不思議だ。

いったいなにが違うのか。

なぜ人は詰碁は面白く、詰将棋はつまらないと感じるのか。

と私は自分個人の感想を過度に一般化して議論するが、私の考えによれば、どうもあの将棋に駒の種類がたくさんあるのがよくないのである。

なぜ将棋にはあんなにたくさんの種類の駒があるのか。

インドで誕生したチェス系ゲームが日本に伝わって変形した結果が現在に将棋であって、その過程でゲームを面白くするために駒の種類が増減したのだろう。

しかしながら、パズルというのは、なるべくシンプルなルールで構成されている方が面白い。少なくとも、既存のパズルに複雑なルールや制限をつけるとつまらなくなるのは確実である。
たとえば、テトリスのように正方形4つをくっつけた図形を並べて枠の中に綺麗に収めるというパズルがある。名前は忘れてしまった。

それがたとえばひとつだけ正方形5つでできた図形であったり、枠がでこぼこしていたりすれば、「だせえな」と思う人は多いに違いない。

あるいは折り紙を作るとき、ノリやハサミを自由に使ってよいとすると、完成した作品の価値は正方形で作った場合よりも落ちるのではないか。そう思う人はたくさんいる。

少なくとも私にはそう感じられるのだ。

したがって詰将棋の問題点は、駒の種類がたくさんあって、パズルとしての本質的美しさを大きく損ねているのではないかということである。

少なくとも、将棋というゲームの存在を前提としなくてはならない点でパズルとしては格が落ちるのではないか。

たとえば、サッカーのパス練習はサッカーを離れても面白いだろうか?

それはあくまでサッカーの練習の一環としてのものであろう。

詰碁の方は規則が単純で、囲碁というゲームを知らなくても純粋にパズルとしての興味が存在しているように思う。

このあたりに詰将棋と詰碁の違いがあるのではないか。

 

(続く)

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